土曜日, 11月 15, 2014


 真珠王 御木本幸吉の生涯 』


真珠王の異名を取る
御木本幸吉(みきもと・こうきち)。


世界で初めて真珠の養殖に成功し、
ミキモトブランドを確立させた
稀代の事業家です。


96歳で天寿を全うするまで
常識を超える大きな夢に挑み続けました。


そんな御木本幸吉の生涯に迫る――。

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「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます」


  松月清郎(ミキモト真珠島真珠博物館館長)

      
    ※『致知』2014年12月号
      連載「致知随想」より


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「世界中の女性の首を
 真珠でしめてごらんにいれます」


史上初の真珠養殖を成功させ、
真珠王と謳われた御木本幸吉が、
明治天皇に拝謁した際に述べた言葉です。


私は日本の真珠の聖地として知られる
鳥羽のミキモト真珠島「真珠博物館」の館長として、
常識を超える大きな夢に挑み続けた
この希有なる事業家の生涯を語り続けています。


幸吉は安政5(1858)年、
鳥羽で代々続くうどん屋「阿波幸」の
長男として生まれました。


商才に長けた祖父・吉蔵の代に
家は隆盛を極めますが、
後を継いだ父・音吉が病弱だったため、
家は次第に傾いていきました。


祖父の感化を受け、
家業再興の念願を抱いた幸吉は、


「鳥羽でせめて3番目の金持ちになりたい」


と夢見て、
13歳の時から「阿波幸」を手伝う傍ら
青物の行商を始めました。


ちなみに3番目の金持ちを目指したのは、
地元の豪商、広野藤右衛門、阿部平吉と
並び称される商人になりたいとの願いからでした。


鳥羽は海の町であり、
海産物に恵まれていました。


商人として大成するために
模索を続けていた幸吉は、
次第にこの海産物にも手を広げるようになり、
貝から採れる真珠に着目しました。


当時の日本では、真珠の産出量が少なく、
サイズも小さかったため、
装飾品として扱う発想はなく、
ほとんどが薬の材料として珍重されていました。


明治20年代の記録によれば、
たった5ミリで25円から50円もの値が付きました。


当時新聞記者として活躍していた
正岡子規の月給が30円だったといいますから、
いかに真珠が貴重であったかが窺えます。


そして伊勢は三河、尾張とともに真珠の有力な産地で、
とりわけ伊勢の真珠は見た目も品質もよく
最も高くランク付けされていました。


ところが幸吉が現地を調査したところ、
既に各所から採取の依頼が殺到して
乱獲に近い状態になっており、
真珠を産むアコヤ貝はほとんど採れない状態になっていました。


しかし、そこで諦めないのが
幸吉の成功者たる所以といえましょう。


採れないなら貝を増やせばよいと考え、
国策の海産物振興を手掛ける大日本水産会の柳楢悦や、
海外で最先端の真珠の知識を得てきた
東大教授の箕作佳吉の協力を得て、
真珠養殖の実験に乗り出します。


寺子屋しか出ていない一介の商人であった幸吉が、
こうした第一級の人々の協力を得ることは極めて異例のことです。


幸吉は人に自分の情熱を伝え、
巻き込んでいく力に非常に長けていたのです。


とはいえ、実験は困難を極めました。


養殖中に英虞湾に発生した赤潮で、
2年の歳月と全財産を懸けた
アコヤ貝が全滅したことがありました。


幸吉はそこで諦めることなく、
その翌年、鳥羽の相島(現・ミキモト真珠島)で
養殖中の貝から5個の真珠を見つけました。


世界で初めて養殖真珠が誕生した瞬間でした。


しかし喜びも束の間・・・

  * *

この後、幸吉の最大の理解者であり、
幸吉を支え続けた妻・うめが亡くなります。

次いである時、赤潮の被害に遭い、
85万個の貝が全滅。

幸吉は降りかかる様々な困難をいかにして乗り越え、
ミキモトパールの名を世界に轟かせたのか。

さらに、幸吉が残した
「事業を成功させる鉄則」とは――。

※この続きは『致知』2014年12月号 P87~P88をご一読ください。

木曜日, 10月 23, 2014


  「おまえは職人として見どころがある」

      川北良造(人間国宝)
   
      
   ※『致知』2014年11月号
     特集「魂を伝承する」より


└───────────────────────┘

ここ石川県南部にある山中(現・加賀市)は、
漆器、挽物の産地として栄え、
職人の家に生まれた子供は
親の仕事を継ぐのが当たり前のことと
考えられていました。


私は母の勧めもあって蒔絵の仕事を学ぶため、
中学卒業後すぐに漆器補導所に通いましたが、
やはり挽物の職人である父の仕事が
気になって仕方がありません。


2年間続けた蒔絵の仕事をやめ、
挽物の仕事を継ごうと決心した私に対して、
父は本家で修業を積むようにと言い渡しました。


(中略)


挽物の仕事はお椀や鉢など決められた形のものを
1日に何百個とつくっていくものですが、
修業時代にはその中でこれはよくできたというものは
必ず父のもとに見せに行きました。


ところがこれなら褒めていただけるだろうと
意気揚々と持っていったものを、
父は一目見ただけで、
黙って床に打ちつけるではありませんか。


最高の出来だと思ったものに対して、
なぜそのような仕打ちをするのかと
私の心は穏やかではありません。


しかし、父がそのようなことをするには、
やはりどこかに欠点があるのではないか。


そう思い直して打ちつけられたものを拾い上げて、
その出来具合をじっくりと見直す。


そんなことが度々繰り返されました。


あれは28歳で初めて日本伝統工芸展に
出品しようとしていた時でした。


ようやく一人前の職人として独り立ちした私に、
父がたった一言、


「おまえは職人として見どころがある」


と口にしたことがありました。


それまで一度として褒められたことがないだけに
驚きながらも、私はどこに見どころがあるのかと
尋ねてみました。


「私はおまえが褒めてもらえると思って
 見せにきたものを土間に打ちつけた。

 しかし、それをすぐに拾い上げて
 一所懸命に観察して考えていた。

 その態度が職人として
 見どころがあると思っていた」


いま思えば父は私の態度をずっと観察しながら、
「この子は職人の道に適しているか」
「辛抱強く一つの道を進んでいけるか」
と心配しながら見てくれていたのでしょう。


たった一言、生涯で一度だけの褒め言葉でしたが、
その時の感動はいまも大切に胸にしまっています。


挽物の名工と呼ばれた父からは、
祖父の代から受け継がれてきた職人の仕事を学びましたが、
私の仕事の幅を広げてくださった方に、
木工芸の人間国宝・氷見晃堂先生がいらっしゃいます・・・

  * *

木工芸の神様・氷見晃堂、
そして、漆工芸の神様・松田権六から
直に教わった「仕事の神髄」「一流の条件」とは――。

……この続きは『致知』11月号 P32~P35をご一読ください。

月曜日, 8月 18, 2014

夏休み九州散歩!!

                

        「  夏休み九州 ・長崎・大分・福岡 散歩!! 」

7月後半に夏休みを頂き、長崎を中心に散策してきました。   東京以上に暑さを感じる長崎ですが
時折スコールの様な降り方の雨は、今までの日本の気候を一変している様に感じます。

翌日は雲仙・島原へ行ってみました、 多分 修学旅行以来だと思うので、〇十年ぶり?!
雲仙の源泉が噴き出る 地獄 暑いです! 噴火でできた平成新山が途中車から見えます。
ここの温泉たまごは箱根の硫黄湯とは違い「黒たまご」にはなりませんね?!   湯でたてたまご食べましたが美味しかったです!
 
その後 島原へ移動して島原城と武家屋敷、道の真ん中には清水がサラサラ流れて癒されます! 「 島原の乱 」で名高い。

1616年 大和から移され松倉・高力・戸田・松平氏等4氏19代の藩主の居城となります。  
 
藩主の厳しい支配に反抗した農民が一揆をおこした、島原城を攻撃したのが「島原の乱」です。   内部にはキリシタン資料や郷土歴史館として運用されていますので天守閣まで上がってみましたら、海が城下の向こう側に見えて、爽やかな風が心地良かったです。 ホットします!
内部は冷房がないので、入口で渡された うちわを片手に「エコ クーラー?!」ですから・・・。
 
別館には 長崎の平和公園のシンボル「平和祈念像」を制作した北村西望記念館があり、平和像の制作過程が伺えます。
 


 
 
三日目は大分の日田・天瀬温泉に向かいました。   偶然でしたが日田のちょうど「日田祇園祭り」にあたり山車の素晴らしいお練りを拝見することができてラッキー!!  夜10時まで続く祭りで、ボンボリに灯して橋の上で8台の山車が競う合いクライマックスを迎え! 
 
 
                                                                                豆田町は歴史の町で 重要伝統的建造物群保存地区になっています。    昔ながらの商家や蔵や民家が趣ある佇まいと今も保存したまま下駄や雑貨や木工店や竹細工や甘味処が続く素敵な町です。                            
日田は林業でも有名なところです。    「うつわくらぶ京」でも 竹張弁当箱http://www.utsuwaclub-kyo.jp/product_info.php/products_id/130  はこちらの日田から仕入れてます。                           
私はまな板や杉の下駄を買い物しました。
  
 
 
                       
日田の名物 やきそばを昼食に食べたら、パリパリやきそばを炒めた感じ、 初めて食しましたが、意外と美味しいのです!!                        それから 山間の道をどんどん奥に進んで行くと、 日本一のつり橋 「大分の 九重夢大吊橋 」 に到着
結構 韓国からの観光バスがきていたので、ビックリ!  阿蘇から上がっている様です。  吊橋を渡って往復しますが、途中 滝が二か所見えるのが 絶景です!!  足元は金網で谷底が見えるのですが、ドキドキものですから見ない様に歩き・た・い・で・す。 涙         その後 天瀬温泉へ宿泊  滝や自然に囲まれた静かな旅館は日頃の疲れを癒してくれます。 ポットするひと時でした。 (いのちの洗濯・・・・)

 
翌日は福岡大宰府天満宮へ 初めて参拝したのですが、大きなお社です、大きな池には亀や錦鯉がいっぱいでした。参道には沢山の店が並び名物「00餅」が熱々で売られています。                               福岡に泊まり、私の夏休みもアット云う間に終わりましたが、 貴重で楽しい時間が過ぎたことは何よりでした。   また 明日から頑張ります!!     皆様の夏休みはいかがでしたでしょうか?!

土曜日, 5月 31, 2014

松本クラフトフェア 2014

「松本クラフトフェア 30周年行ってきました」

毎年のように愉しみに伺っている松本F も今年で30周年! 今や日本一のフェアと成り 多くの来客者で賑わっています。   今年も2日間晴天に恵まれポットします。

もともとは5・6件のもの作りの作家さんから始まったと聞いています、それがどんどん広まって、今では250人のもの作りの作家さんたちが全国から応募・選抜されて参加しているのですから、規模の大きさは大変なものです。
30周年イベントが松本街中 あちらこちらで行われていました。

毎年 お付き合いのある作家さんが参加されているので、テントに伺って作品を拝見したり、おしゃべりをしたり その間もどんどん来客者があるので 対応に追われて忙しそうです。
イベントの一環なのか 前衛演劇集団?!の ねり歩きが校庭内であり、摩訶不思議な雰囲気に見とれて・・・・・?!
奥の芝の広場では 30周年記念の「餅つき」が開催され来客のみなさんに振る舞われました。
また 生バンドにはちびっこがドラムを叩くバンドが入り賑やかなひと時を愉しませてくれます。
私の好きな 小峰美省さんの筆さばきが素敵な絵付けのカップ!! どんな方かな?って思っていたら ばったりクラフト出会れて とっても嬉しかった!! ご夫婦共に陶芸家でした。
とても絵付けが手早く しまも個性的で素敵なうつわです!!  勿論自分用にGet!
 

 
 

中丸貴幸さんのか皮革工房 や 針金細工のアクセサリーも可愛い!! 境知子さんの陶磁 大きな土瓶や 気に成るものはどんどんあり、 たくさんのテントのある数分 素敵な物語があるんですよね。
お気に入りを探しに来年は来てみませんか?!  松本の街あげて愉しめる2日間になりますよ。
2日目は 好きなギャラリーを廻って、美味しいそばを頂いて、一路東京へ帰ります。 今回も素敵な作家さんに出会えました! ありがとう!!
 
 
街中では「いこいのひろば」 で「写真&映画 まち展」があり 夜 野外映画放映がありました。 ちょうど松本クラフトの20年前の様子が放映中で 近くの焼き鳥屋で飲んでいたので、ラッキーなことに参加できました。                                              
信州大学の学生さんたちが 準備をしてクラフトフェアのイベントの一環を担っていました。   放映後は親睦を兼ねてフリードリンク 参加者同士おしゃべりが愉しめます。 とてもいい企画だったと思います!   松本には昭和初期の建物がまだ伺える場所が沢山点在しています、夜の散歩がてら歩いてみました。
 

下は「まるもカフェ」 旅館もしています。 レトロな雰囲気の素敵なカフェ。

「やきとり とり八」は偶然でしたが、TVでお馴染みの 吉田類さんが訪問取材した店でした。 6/9 放映だそうです。(笑)
「photo&movieまち展」 はとり八さんの前の広場で開催されました。

 
 

土曜日, 5月 10, 2014

「益子陶器まつり GW 2014」

GWも終わり まるで祭りの後状態?!  別に特別のこともしていないけど ・・・そんな感じの人は結構いるみたいです。

昨年は「笠間火祭り」に行ったので、今年は「益子陶器まつり」にしました。  朝5時45分には世田谷を出発、高速に乗り一路 東北道・・・しかし東京を出た辺りから既に渋滞ぎみ、 参った!
結局10時頃目的地の益子IN。
                                         いつも訪れる作家さんたちの場所には顔見知りの作家さんもきていて、連休11日間の出店はとても疲れるそうで、地元の作家さんでも自宅に帰ったら、バタンキュ!だそうです。 (うん わかる様な気がします。)

連休前半は雨模様、後半は天候に恵まれ半そででもいい様な上天気でした。
この一角(見目陶苑・土空間)ではクラフトマンによるミュージック演奏で盛り上がっていて、多くの人達が愉しんでいましたね。
このおふたり息もピッタリ! 即興でも いけてます!

とてもフォルムが綺麗な花器です、磁器。  清々しい時季にピッタリな爽やかポットたち!

遺跡広場テント村裏にいた作家さんのコーナーです。 ちょっと惹かれます。

私は前から欲しかった素敵なOOに出会って うれしいー!!^0^

歩き廻っていたので、お腹ペコ、手打ち蕎麦が食べたかったのですが、どちらもいっぱいで思うところがありません。 ちょっと横道の奥にあった「陶知庵」にて昼食休憩します。 このお店奥が広く、何人でも入れそうな個室がいっぱいあるのでビックリ! 
連休だからこそ人でごった返しだけど、 平日はあまり人でも少ないのに、こんな大きなお店があるんだー?!
益子は若い作家さんたちが多いから、夜は飲んだりするお店も結構多いのかもしれないね?!

■ 本日のランチを注文! コロッケ& 唐揚げをチョイス、お味噌汁付きで850円 リズナブル。
白米・雑穀米・竹の子ご飯・赤飯 からチョイス。

折角なので 竹の子・ウド・野菜を買って帰ることにしました、 主人の好物の竹の子のお味はいかがなもんだったでしょうか? 朝掘りと云ってましたが?  煮物・炒め物・竹の子ご飯!
 
帰りは渋滞を考えて早めに益子を後にしたのですが、東北道の帰りも 佐野・辺りからのろのろ運転です。 アット云う間に35K渋滞、羽生Pで休憩タイム。 ここは最近オープンした「鬼平 江戸処」 江戸時代にタイムスリップしたような情緒あふれるPAです。  蕎麦・うなぎ・1本うどん・中華そば・江戸めし・くず餅・人形焼・屋台・みやげ処 etc  フードコートがあるので、好きなものを買って召し上げることができる様になっています。    一度寄ってみるのも愉しいですよ!!
 
夜7時頃帰えってきました。  それから 念願の手打ち蕎麦やへ食べに行ったのでした。笑 
 
 
 
                         ■東北道 羽生P 「鬼平 江戸」外見・内部







 

火曜日, 4月 08, 2014

「 飯野夏実陶展 2 」

                                                            


「飯野夏実陶展 拝見」
3月後半消費税8%にUPする直前の慌ただしさの中、この日はきっちり空けて作家さんたちから届いた個展に伺う日に決めて、午後から出かけることにした。

加藤喜道陶展の次は飯野夏実さんの作品を拝見、どちらの作家さんも手描きの筆使いがみごと!  美大を卒業後、京都伝統工芸大学陶芸科で小野多美枝先生に師事、先生との出会いにより更に絵付けを習得して飯野さんの基礎となります。  小野多美枝先生は明治初期から大正期にかけて欧米に輸出された人気の高い「京薩摩」を独学で研究されて、現代の生活に合ったやきものとして創作している方です。


飯野さんが手がけていた ウクライナの工芸品ピサンキです。(卵工芸)
 これは蝋けつ染なんですよ! 綺麗でしょう!!



 ■飯野夏実さんのうつわたち
http://www.utsuwaclub-kyo.jp/artist_info.php/manufacturers_id/83?osCsid=e03e818252446a1aa6f2f3116817dfbf


 


飯野夏実さんが描かれたピサンキはウクライナに伝わる、ろうけつ染めのイースターエック。

月曜日, 4月 07, 2014

  「加藤喜道陶展・飯野夏実陶展 拝見 1」

   「 加藤喜道 + MORE 作品展  」

             
長い冬の冬眠から覚める様に春の訪れと共に 作家さんたちの陶展が開催中、
たくさんの作家さんから嬉しいお知らせハガキが届きます。  本来なら全ての作家さんの作品展に伺いたいのですが、4月1日からの8%の消費税の影響やら準備で毎日追われる日々で中々時間がとれず、今回は日々の合間にお二人の作家さんの作品展を訪ねてみました。

まずは 「加藤喜道+MORE 作品展 」 加藤さんのうつわの特徴は何しろ手描きの絵付けの好きな作家さんだなーぁって、感じます。  古典柄や着物柄をオリジナルにデザインして殆どフリーハンドで描きこんでいきます。  赤絵や金彩やカラフルな絵付け、 時には可愛らしく、根気強くチャレンジされたうつわたちは親しみ易くさえ思うのです。

加藤さんはとても器用な方でお菓子つくりやお料理も上手です。 お邪魔したギャラリーさんで出してくださったお茶とお菓子も実は加藤さんのお手製でした!!

「加藤喜道きまぐれランチ」の予約もあり 限定数で加藤さんのこれまた お手製のランチが召し上がることができるんですよ!! なんて素晴らしいー!!

実は我が家のご主人様も休みの日など気まぐれに料理をするので、加藤さんとギャラリーオーナーと3人で話が弾んでしまいました。笑

世のお料理やさんもレストランのシェフも男性が多いのだから、けして驚くことではないのですが・・・・何故に? こんなに美味しいのか!?  男性の方がセンスがいいのだろうか?!                              
また 加藤喜道さんに注文をしてきましたので、できあがったらご紹介して参りますね。



木曜日, 3月 20, 2014

【 書家・相田みつをに見る プロフェッショナルの流儀とは? 】

日 ◆


今年、生誕90年周年を迎えた
国民的書家・相田みつをさん。


誰もが一度は聞いたことのある


「つまづいたっていいじゃないか
 にんげんだもの」


という詩に見られるように、
柔らかい語り口が
特徴といえるでしょう。


しかし、それとは裏腹に
書に向かう姿勢は
実に鬼気迫るものがあったといいます。


ご子息で相田みつを美術館館長の
相田一人さんが語った
「相田みつをのプロフェッショナルの流儀」とは――。


┌────今日の注目の人─────┐



  「書家・相田みつをに見る
 プロフェッショナルの流儀とは?」


 相田一人(相田みつを美術館館長)
         
     
 ※『致知』2014年4月号
 特集「少年老い易く学成り難し」より


└────────────────┘

※対談のお相手は
 円覚寺管長・横田南嶺氏です。


相田 父の詩というのは表現が分かりやすいのが特徴でして、
   ある意味で入りやすい、間口が広いのかなと思います。


ただ作品の語り口とは裏腹に、
書に向かう姿勢は厳しかったですね。


横田 書いている時は家族でも近づけないような?


相田 それはもう、凄い緊張感があって
   側には寄れなかったです。


私の父は我がままでして、自分が一番書きたいと思う時間、
自分の気持ちが高まった時しか筆を執らないんです。


要するに気分が乗らないと筆を執らない。


ただ、筆を執らない日は一切なかったんですね。


父がよく言っていたのは、
一日書かない日があると調子が戻るまでに
十日くらい時間がかかると。


また、


「例えば十年間作品を書かなかった小説家が
 いきなり傑作を発表することはあるだろう。
 しかし十年間筆を執らなかった書家が
 カムバックしてもろくな書は絶対に書けない」


とも申しておりました。


書というのは肉体の訓練がないと、
いくら頭の中でシミュレーションしても
書けないということだと思います。


だいたい夜中のほうが気分が乗ってくるようでしたが、
ちょうどいま頃の季節は、故郷の足利は寒いんですよ。


夜更けに書いていると墨が凍ることもあったそうです。


しかし写真のように仕事場は失敗の紙の山ですから、
ちょっとでも火の気があったら一瞬で火の海です。


だからストーブなどは置かずにやっていました。


横田 お聞きするだけでも鬼気迫るものがありますね。


(中略)


相田 うちの父は色紙を嫌っておりましてね。
   晩年、講演などさせていただいた後、
   聴衆の方に「何か書いてください」と持ってこられると、
   なるべく断っていたようです。


それでもどうしてもという場合は、
その場では書かず、お預かりして
仕事場に持って帰ってきていました。


つまり、どんな書も全力で書くので、
自分の一番集中できる空間、愛用の道具でしか書かない。


預かった色紙と同じものを一箱くらい紙屋さんに注文して、
何枚も書いて一番よくできたと思われるものを
送って差し上げていました。


横田 そこまで徹底されていたのですね。


相田 はい。書に対しては一切妥協しなかったですね。
   どんなに貧乏をしても道具類は
   最高のものを買い求めていました。


「自分はプロだ」という意識が強かったようで、
プロという看板をさげているからには
4回以上個展を開いている人間でないと
名乗っちゃいけないとも言っていました。


というのは、1回目は皆がお祝いで買ってくれると言うんですね。
初めての展覧会だからお付き合いで買ってあげようと。


2回目は、前回お付き合いできなかったから今回は買うよ、
という人がいて、2回目も何とか売れるらしいんです。


しかし3回目からは実力がないと一切売れなくなる。
つまり義理買いがなくなるということです。


プロの看板をさげるからには
4回以上個展を続けていないといけないと、
十数回目の個展を終えた後に申しておりました。


  * * *


相田みつを。
いまなお多くの人々を魅了してやまない
琴線に触れる名詩の数々――。


……続きはぜひ『致知』4月号P66~P76をご一読ください。

火曜日, 2月 18, 2014

【誰よりも遠く・高!限りないジャンプの魅力に惚れて 葛西紀明】

一昨日、日本中が歓喜に沸きました。


ソチ五輪スキージャンプの
個人ラージヒル種目で
葛西紀明選手が銀メダルを獲得。


41歳でのメダル獲得は
冬季五輪日本勢で最年長の記録となりました。


7度目のオリンピック挑戦にして、
ようやく悲願を達成した葛西選手が
直後のインタビューで語ったこと。


それは、


「金メダルという次の目標に
 向かって頑張ります」


というものでした。


真のレジェンドを目指す葛西選手の
飽くなき挑戦心に迫る――。


┌────今日の注目の人───────┐



   「誰よりも遠く、高く!
  限りないジャンプの魅力に惚れて」
         

      葛西紀明
 (ソチ五輪スキージャンプ
  男子個人ラージヒル銀メダリスト)

     
 ※『致知』2005年8月号
   特集「彊めて息まず」より


└──────────────────┘


やはり心技体、どれか一つでも欠ければ
絶対に世界は取れません。


パーフェクトなものをつくって臨まなければ
金は取れないと思うのです。


だから僕は、1シーズン通して
全部完璧なジャンプで終わらせたい。


そうすれば、オリンピックでも
金メダルを取れると思うし、
世界選手権でもワールドカップでも優勝できる。


そのためにはどうすればいいかを
ずっと考えながら、
きょうまで20年以上厳しいトレーニングを
積んできたのです。


それでも、本当に完璧と思えるジャンプは、
これまでに2、3回しかないんです。


――あぁ、わずかに2、3回……。


子どもの頃は、ただ跳ぶことが楽しくて、
何も考えずに跳んでいました。


社会人になってからは、
たくさんのスランプも経験して、悩んで、
技術的にもいろんな模索をしてきましたが、


そういう中で子どもの頃のように
無心で自然なジャンプができれば、
完璧なジャンプに近づけると思うんです。


幸い、若い頃から血を吐くような練習を
ずっと続けてきましたから、
32歳のいまでも、体力の面では
世界トップレベルを維持できています。


むしろ少しずつ伸びてさえいます。


――それは驚異的なことですね。


精神的にも、年を重ねていく中で、
悔しいこと、辛いこと、
たくさんの修羅場をくぐり抜けてきて、
常に安定した状態を保てるようになりましたね。


さらに、4年前に移籍してきた土屋ホームが
全面的にバックアップしてくれていますから、
心置きなく練習に打ち込むことができます。


(中略)


僕は負けず嫌いだから、
とにかく練習していなければ
勝てないと思って、
これまでは休むことを知らなかった。


でも、それが逆に悪いリズムを
つくっていたんですね。


毎年2月になると
成績がガクッと落ちるんですよ。


コーチから、


「これはたぶん疲れだ。
 もっとリフレッシュしなければ
 本来の力を発揮できない」


と言われて、1月の試合の後、
次の世界選手権までの間に
必ず1、2週間休むようにしたんです。


最初は、こんなに休んで大丈夫かって不安でしたね。


しかし、そうして臨んだ2004年の世界選手権では、
ノーマルヒル、ラージヒルでともに銅、団体で銀と、
1度に3つのメダルを取ることができ、
ワールドカップでも最年長記録を塗り替えて
31歳と8か月で優勝を果たすことができたのです。


――悲運に見舞われても、勝利に恵まれなくても、
  ひたすら挑戦を続ける。ジャンプの魅力は何ですか。


ジャンプというのは特殊な競技で、
誰にもできるわけではありません。


自分の生身の体で跳んでいくこと。
危険の中で誰よりも遠く、高く跳んで勝つこと。


その喜びに、僕は惚れたんです。
これはもうやめられないですね。


――だからこそ「彊めて息まず」厳しい練習を
  続けてこられたのですね。


「彊めて息まず」。好きですね、そういう言葉は。
僕の好きな「継続は力なり」という言葉にも
通じるものでしょう。


その言葉に少しでも近づけるように、
僕はこれまで努力を続けてきました。


その間にいろんな不運にも見舞われましたが、
おかげで精神力、忍耐力もついて、
金メダルへの思いを途切らせずに
ここまでくることができました。


この言葉に着実に近づいてきた
という実感があります。

月曜日, 2月 10, 2014

【伸びる人と 伸びない人の差】

先日開幕し、連日熱いドラマが
繰り広げられているソチオリンピック。


今大会、最も金メダルを期待されている
注目選手の一人といえば、
フィギュアスケートの浅田真央選手でしょう。


浅田真央選手を育てたコーチ、
山田満知子さんが語った
「伸びる人と伸びない人の差」とは――。


┌────今日の注目の人───────┐



  「伸びる人と伸びない人の差」

         

 山田満知子(フィギュアスケートコーチ)
 

     
  ※『致知』2006年4月号
    特集「根を養う」より


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はっきりいって、
頭が悪いのはダメですね。
学校の勉強じゃないですよ。


1を言って10を知るじゃないけど、
コーチがいま何を考えているかとか、
きょうは何を練習したらいいかとか、
こちらが何も言わなくても
察することができる。


そういう勘がいい子が伸びますね。


私の場合、
チャンピオンにするとか、
メダリストにするとか、
実はそれほど興味がないんです。


うちに習いに来て、3しか能力がない子を
5とか7とかにすることはできても、
もともと10の才能を持っている
天才にはかなわない。


五輪に出てくる選手なんて
みんな天才ですよ。


その天才たちがさらに天才的に努力をして、
やっとメダルに手が届くかどうか。
そういう厳しい世界です。


世界の頂点に立てるのは
天才の中の超天才だけ。


たまたま(伊藤)みどりや
(浅田)真央はなれましたけど、
なれない人がほとんどなんですよ。


そりゃ私も2番より1番のほうがいいですよ。
でも、たとえ5番でも、みんなから


「あの子、いい子だったね」
「あの人の演技って素敵だったね」


と言われるスケーターがいいなと私は思います。


だってジャネット・リンだって3位ですよ。
誰も1位の人なんて覚えちゃいない(笑)。


彼女のスケートのいろいろなシーンに人間性が出て、
それがいつまでも私たちの心に残っているんです。


だから私はジャンプができないとか、
スピンが下手とか、そういうことではまず怒らない。


礼儀とか躾のほうが多いかな。
反抗期の時、生意気だったり、
先生にプンみたいな態度でいる子には
「ちょっと待ったぁ!」と。


「私はあなたより年上で、
 しかも先生でしょう。
 いまの受け答えはないでしょう」


とはっきり言います。
要するに生き方の注意のほうが多いですね。


みどりはハートの強さと優しさが混ざった
演技をするスケーターでしたし、
真央は素直で自然体の愛らしい演技をする子。


それってそのまま彼女たちの性格ですよ。
人間性が全部スケートに出ているんですね。

日曜日, 1月 19, 2014

【 伊勢 おはらい町・おかげ横丁散策 2 】

【 伊勢 おはらい町・おかげ横丁散策  2 】     

伊勢神宮参拝後、お土産品や名物やお食事処が続くおはらい町やその奥に続くおかげ横丁を愉しみに散策してみました。 参拝者のほとんどの人達が道いっぱいに繰り出しているので、こちらも大変な混み様です。  お昼時でもあるので名物の「伊勢うどん」と「手こね寿司」を頂きました。
この「伊勢うどん」関東うどんとも違って、汁は真っ黒、うどんは太く茹ですぎの様に柔らかく汁はソースの様に掛っているのです。 初めての経験でしたので、ちょっと驚きでした!(笑)


おかげ横丁の角口にある「赤福」は大変な行列で賑わってますが、お土産買うにも大変そうですね。

 お正月のイベントに祝い太鼓が観られてラッキー!


2曲演奏がありました。演奏前に儀式があり会場が盛り上がってきます。  三重のしめ縄も地方性があって独特で、東京との違いも面白いです。 東京はどちらかと云うと縦長のしめ縄飾りですが、こちらのは横広ですね、だいだいと木札に「七福・門」などと書かれてますね。 おめでたい・子孫繁栄を願ったお札です。

 お正月ならではの風情も見られ伊勢参拝に来られて良かった! 何だか神頼みですが、でもやっぱり神頼みなんですけど、健康で良い年に成ります様に頑張ります!
神様どうぞ宜しく・・・・。(俗っぽい私ですが願がとどきましたでしょうか??)

 


*伊勢うどんのたれは甘味のあるたまり醤油です。うどんが柔らかなのは旅の途中に消化のいいものを食べさすため、熱い汁ではなく、たまりに搦め手食べ易くするためだとか、考えられた末の「伊勢うどん」だそうです。

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五十鈴川から見たおはらい町の川沿い景色。