木曜日, 12月 26, 2013

【西郷隆盛の人格を創り上げたもの】



  「西郷隆盛の人格を創り上げたもの」
         

     
     星亮一(作家)


      ※『致知』2014年1月号
        特集「君子、時中す」より


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西郷隆盛は、文政10(1828)年、
薩摩藩の下級武士の子として生まれました。


西郷は幼い頃から、
藩独自の郷中教育によって
勉学や武術を学び、
武士としての生き様を
徹底して仕込まれていきました。


西郷が海外に関心を抱いたのは
開明派大名として知られた
藩主・島津斉彬の影響でした。


安政元(1854)年、
西郷は庭方役として直接、
斉彬に相まみえるようになり、
その縁で水戸学の藤田東湖などの
薫陶を受けるようになるのです。


西郷にとって斉彬のような名君に仕えたことは、
時流を読む眼を養うとともに、
大きな誇りにもなっていたようです。


命を受けた西郷は、
一橋慶喜擁立による幕府の体制づくりと
開国、富国強兵という
斉彬の計画のために奔走するのです。


ところが、斉彬が急死した後、事態は一変。
西郷は「安政の大獄」の煽りを受けて
奄美大島に流され、
帰国後は藩主の島津久光の逆鱗に触れて
沖永良部島への流罪を言い渡されます。


特に沖永良部島での獄中生活は
過酷を極めました。


戸も壁もない吹きさらしの牢に繋がれ、
幾度も生死の境を彷徨いますが、
西郷はそういう環境にありながら、
3つの行李いっぱいに詰め込んだ
古典などの書物を精読していたといいますから、
何事にも屈しないその胆力は
計り知れないものがあります。


西郷が後に大西郷と呼ばれるのは、
この2度の島流しによって自らを鍛え、
より人間的な幅を増したことによるものだと思います。


遠島が死刑に次ぐ大罪でありながら、
家老の小松帯刀や大久保利通の尽力で
復帰を果たしたのは、
何よりも西郷の人望の厚さを
物語っていると思います。


  * * *


勝海舟と西郷隆盛。
江戸城無血開城の立役者である2人は
どのように自らを練り上げ、
世界に類を見ない偉業を成し遂げていったのか。

続きはぜひ『致知』1月号P30をご一読ください。