土曜日, 12月 28, 2013

【偉人を育てた母の言葉】


           『偉人を育てた母の言葉』

                   大坪信之(著)

          


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 洋の東西を問わず、
 歴史に名を残した偉人には、
 幼少期にその人格を決定づける
 偉大な母の存在があるといいます。
 
 本書は0歳から12歳まで、
 約1000名が通う幼児教室を経営する著者が、
 アンデルセン、宮沢賢治、野口英世、
 エジソン、吉田松陰、北野武、乙武洋匡など、
 古今東西21人の偉人たちと、
 その母親に纏わる感動実話を紹介。

「どんなことがあっても、名誉と約束だけは重んじるのだよ」と、
 毎日のように言って聞かせたナポレオンの母。

「貧乏は恥ではない。貧乏に負けることが恥なのだ」
 と教えた西郷隆盛の母。

 いずれも、我が子を信じて成長を願う
 深い祈りと無償の愛が伝わってきます。

 それぞれの逸話を通じて、
 子供に備わる才能を花開かせるか否かは、
 母親の接し方にかかっていることが実感できるでしょう。

 森信三師は
「民族の将来は女性のあり方いかんによって決まる」
 と言われました。

 すべての母親に一読をお薦めしたい書籍です。


 ここではその一部を紹介いたします。
 

      *        *


「いずれあなたは自分にふさわしい状態になります。
 
 他の人の言葉にいじけてはなりません。
 
 自信をもって生きなさい。

 自信こそすべての成功の根源です」

         
           リンカーンの母・ナンシー




 彼(リンカーン)の家はとても貧乏でした。

 リンカーンが学校に上がる頃、
 彼の服装は同年代の子どもたちのからかいの的でした。

 新しい服を着ることができず、
 いつもツギハギのあるみすぼらしい服を着ていたからです。

 からかいに耐えかねた彼が母ナンシーに訴えかけたとき、
 彼女は彼を抱き寄せてこんな言葉を返したと言います。


「息子よ、まずこの家の家計を考えねばなりません。

 わたしたちは裕福ではないのです。

 家族みなが食べてゆくことさえ
 思うままになりません。

 そんな状態なのに、
 あなたはきれいな服が欲しいと言えますか?

 自分の家の状態にふさわしくふるまいなさい。

 いずれあなたは自分にふさわしい状態になります。

 他の人の言葉にいじけてはなりません。

 自信をもって生きなさい。

 自信こそすべての成功の根源です」


 この時以来、
 リンカーンは大いなる自信を持ち続けたと言います。

 経済的に裕福でないためにくじけそうになってしまうときにも、
 彼は決して自信を失わずにたゆまぬ努力で勉学を続けました。

 自信が彼の最大の武器となったのです。


       *      *


 また、『偉人を育てた母の言葉』出版を記念して
 「私を支えた母の言葉」をテーマに、
 現在100字エッセイの募集を行っています。

 「あの一言があったから私はやってこられた」
 というお母様の言葉や、
 その後の人生を生きていくうえで指針となった一言など、
 あなたの心の支えとなった
 お母様からの言葉をぜひお聴かせください。


 詳細はこちら
  ⇒ http://www.chichi.co.jp/kiji/131220-entry.html


 ご応募お待ちしております!!
 



◆ 子どもの才能を引き出す愛し方
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   『偉人を育てた母の言葉』

         大坪信之(著)

木曜日, 12月 26, 2013

【西郷隆盛の人格を創り上げたもの】



  「西郷隆盛の人格を創り上げたもの」
         

     
     星亮一(作家)


      ※『致知』2014年1月号
        特集「君子、時中す」より


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西郷隆盛は、文政10(1828)年、
薩摩藩の下級武士の子として生まれました。


西郷は幼い頃から、
藩独自の郷中教育によって
勉学や武術を学び、
武士としての生き様を
徹底して仕込まれていきました。


西郷が海外に関心を抱いたのは
開明派大名として知られた
藩主・島津斉彬の影響でした。


安政元(1854)年、
西郷は庭方役として直接、
斉彬に相まみえるようになり、
その縁で水戸学の藤田東湖などの
薫陶を受けるようになるのです。


西郷にとって斉彬のような名君に仕えたことは、
時流を読む眼を養うとともに、
大きな誇りにもなっていたようです。


命を受けた西郷は、
一橋慶喜擁立による幕府の体制づくりと
開国、富国強兵という
斉彬の計画のために奔走するのです。


ところが、斉彬が急死した後、事態は一変。
西郷は「安政の大獄」の煽りを受けて
奄美大島に流され、
帰国後は藩主の島津久光の逆鱗に触れて
沖永良部島への流罪を言い渡されます。


特に沖永良部島での獄中生活は
過酷を極めました。


戸も壁もない吹きさらしの牢に繋がれ、
幾度も生死の境を彷徨いますが、
西郷はそういう環境にありながら、
3つの行李いっぱいに詰め込んだ
古典などの書物を精読していたといいますから、
何事にも屈しないその胆力は
計り知れないものがあります。


西郷が後に大西郷と呼ばれるのは、
この2度の島流しによって自らを鍛え、
より人間的な幅を増したことによるものだと思います。


遠島が死刑に次ぐ大罪でありながら、
家老の小松帯刀や大久保利通の尽力で
復帰を果たしたのは、
何よりも西郷の人望の厚さを
物語っていると思います。


  * * *


勝海舟と西郷隆盛。
江戸城無血開城の立役者である2人は
どのように自らを練り上げ、
世界に類を見ない偉業を成し遂げていったのか。

続きはぜひ『致知』1月号P30をご一読ください。