土曜日, 11月 15, 2014


 真珠王 御木本幸吉の生涯 』


真珠王の異名を取る
御木本幸吉(みきもと・こうきち)。


世界で初めて真珠の養殖に成功し、
ミキモトブランドを確立させた
稀代の事業家です。


96歳で天寿を全うするまで
常識を超える大きな夢に挑み続けました。


そんな御木本幸吉の生涯に迫る――。

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「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます」


  松月清郎(ミキモト真珠島真珠博物館館長)

      
    ※『致知』2014年12月号
      連載「致知随想」より


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「世界中の女性の首を
 真珠でしめてごらんにいれます」


史上初の真珠養殖を成功させ、
真珠王と謳われた御木本幸吉が、
明治天皇に拝謁した際に述べた言葉です。


私は日本の真珠の聖地として知られる
鳥羽のミキモト真珠島「真珠博物館」の館長として、
常識を超える大きな夢に挑み続けた
この希有なる事業家の生涯を語り続けています。


幸吉は安政5(1858)年、
鳥羽で代々続くうどん屋「阿波幸」の
長男として生まれました。


商才に長けた祖父・吉蔵の代に
家は隆盛を極めますが、
後を継いだ父・音吉が病弱だったため、
家は次第に傾いていきました。


祖父の感化を受け、
家業再興の念願を抱いた幸吉は、


「鳥羽でせめて3番目の金持ちになりたい」


と夢見て、
13歳の時から「阿波幸」を手伝う傍ら
青物の行商を始めました。


ちなみに3番目の金持ちを目指したのは、
地元の豪商、広野藤右衛門、阿部平吉と
並び称される商人になりたいとの願いからでした。


鳥羽は海の町であり、
海産物に恵まれていました。


商人として大成するために
模索を続けていた幸吉は、
次第にこの海産物にも手を広げるようになり、
貝から採れる真珠に着目しました。


当時の日本では、真珠の産出量が少なく、
サイズも小さかったため、
装飾品として扱う発想はなく、
ほとんどが薬の材料として珍重されていました。


明治20年代の記録によれば、
たった5ミリで25円から50円もの値が付きました。


当時新聞記者として活躍していた
正岡子規の月給が30円だったといいますから、
いかに真珠が貴重であったかが窺えます。


そして伊勢は三河、尾張とともに真珠の有力な産地で、
とりわけ伊勢の真珠は見た目も品質もよく
最も高くランク付けされていました。


ところが幸吉が現地を調査したところ、
既に各所から採取の依頼が殺到して
乱獲に近い状態になっており、
真珠を産むアコヤ貝はほとんど採れない状態になっていました。


しかし、そこで諦めないのが
幸吉の成功者たる所以といえましょう。


採れないなら貝を増やせばよいと考え、
国策の海産物振興を手掛ける大日本水産会の柳楢悦や、
海外で最先端の真珠の知識を得てきた
東大教授の箕作佳吉の協力を得て、
真珠養殖の実験に乗り出します。


寺子屋しか出ていない一介の商人であった幸吉が、
こうした第一級の人々の協力を得ることは極めて異例のことです。


幸吉は人に自分の情熱を伝え、
巻き込んでいく力に非常に長けていたのです。


とはいえ、実験は困難を極めました。


養殖中に英虞湾に発生した赤潮で、
2年の歳月と全財産を懸けた
アコヤ貝が全滅したことがありました。


幸吉はそこで諦めることなく、
その翌年、鳥羽の相島(現・ミキモト真珠島)で
養殖中の貝から5個の真珠を見つけました。


世界で初めて養殖真珠が誕生した瞬間でした。


しかし喜びも束の間・・・

  * *

この後、幸吉の最大の理解者であり、
幸吉を支え続けた妻・うめが亡くなります。

次いである時、赤潮の被害に遭い、
85万個の貝が全滅。

幸吉は降りかかる様々な困難をいかにして乗り越え、
ミキモトパールの名を世界に轟かせたのか。

さらに、幸吉が残した
「事業を成功させる鉄則」とは――。

※この続きは『致知』2014年12月号 P87~P88をご一読ください。