火曜日, 9月 13, 2016

奥田章展 二子玉川高島屋

  【 奥田章 展 行ってきました 】

9月に入り台風が次々と日本列島に上陸、各地に被害が相次いでおります。
そんな さなか東京の二子玉川高島屋で 奥田章展が5階食器エリアで開催。
9/7(水)~ 9/13(火) 初日に奥田さんがいらしていると連絡があったので
私は昼頃に到着、しかし・・・釘田さん遅いよ!と奥田さんに云われて・・・。
そのはず、開店と共にかなりの奥田ファンが5階に駆け上がった様子。

今回は新作も展示されていたので会場での作品の写真も撮らせていただき、注文もしてきました。

ひとつひとつ丁寧に奥田さんがうつわの説明をしてくれたので、一見同じに見えるが土の違い釉薬の加減などや金彩の入り方も説明していただきよくわかりました。
まだ 手直しする部分もあるそうですが、また新作を皆様にご紹介して参ります。

■会場での様子や新作うつわの写真です。

この2・3日で完売してしまう勢いです、最終日には
うつわの展示がないかもしれません!
奥田章さんです。
和食器でも洋にもエスニックにも合わせられるモダン感がそして使い手を考えて軽くて使い易いうつわづくりが、うつわファンのハートを掴んでいるのでしょう!!      
とても気さくで、フレンディな奥田さんの魅力も器と共に惹かれますね。


十草のパスタ皿。

金彩のうつわ ちじれて綺麗に金彩。
会場でお客様に説明中。
黒十草の急須。板皿です。


  *写真をクリックすると拡大されます。






 

金曜日, 5月 13, 2016

イタリア料理の名店「アルポルト」片岡:落合

イタリア料理の名店
「アルポルト」。

オーナーシェフの片岡さんは、
かつて料理長を務めていたお店で
6年連続満席を続けるほどの
腕前を披露されていたそうです。

その成功の秘訣とは──

────────[今日の注目の人]───

イタリア料理の名店
「アルポルト」。

オーナーシェフの片岡さんは、
かつて料理長を務めていたお店で
6年連続満席を続けるほどの
腕前を披露されていたそうです。

その成功の秘訣とは──

◆ 食の喜びを求め続けて ◆

片岡 護(リストランテ・アルポルト オーナーシェフ)
   ×
落合 務(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ オーナーシェフ)

※『致知』2016年5月号【最新号】
※特集「視座を高める」P58

───────────────────

【落合】
「グラナータ」とは対照的に、
片岡さんが昭和52年から
料理長を務められた「マリーエ」では、
最初からお客様がたくさん
いらっしゃったようですね。


【片岡】
オーナーが有名なテノール歌手の
五十嵐喜芳さんで、イタリアに
精通していらっしゃいましたから、
ここで出すものなら間違いないだろう
という印象が最初からあったんです。


その時、僕の頭にあったのが、
ミラノの「ダリーノ」というお店でした。

いろんな料理を少しずつ出して、
最後に美味しいパスタがバーンと出てくる。
あぁ、こういう懐石料理みたいなのが
イタリアにもあるんだと思って
すごく印象に残っていたんです。


(略)


(それで)日本料理の
エッセンスを入れて、
日本人の個性を生かして
やろうと思ったんですよ。

最初は、そういうのは
イタリアンじゃないと思われて、
五十嵐さんも乗り気ではなかったんです。

でも、僕はとにかくいろんな形で
イタリア料理を知っていただきたい
という気持ちが強かったので、
何とかご理解をいただいてやってみたら、
それがすごくヒットしましてね。

僕がお店にいた6年間、
ずっと満席が続いたんです。


【落合】
だからお互い両極端といえば
両極端なんですね。

僕の場合はイタリアと同じものを出そう。
同じやり方をコピーして絶対に
本物以上にしてやろうという
気持ちでやっていたけれども、
片岡さんは本物のイタリア料理
でありながら、日本人が
喜ぶ形にアレンジされた。

だから日本のお客様にも最初から
受けたんですね。頭がいいんだよ。

【片岡】
五十嵐さんとの契約期間は
6年間だったんですが、
4年経った頃によそから、
うちでやりませんかという
お誘いをいただきましてね。

いろんな人に相談したんだけど、
自分のやりたいお店のイメージは
はっきりしていたので、だったら
自分でやったほうがいいと考えて、
2年後に独立して「アルポルト」を
オープンしたわけです。

ですから、独立のきっかけを
もらったのは、その引き抜きの
話だったんですよ。


ただ、最初は全然お客様が入らなくて
本当に大変でした。

五十嵐オーナーの手前、
「マリーエ」でやっていたことは
伏せていて、知名度もありません
でしたからね。でもありがたいことに、
女優の有馬稲子さんが新聞のコラムに
僕のお店を取り上げてくださって、
それからずっと満席になったんです。


こうして振り返ってみると
改めて実感するんですが、
そんないろんな積み重ねが
あっていまがあるわけですよね。
 

【落合】
僕が独立を具体的に
考えるようになったのは……


※イタリア料理の最高峰に立つ
 お二人ですが、心のうちでは
 まだまだ勉強しなければと
 いまも料理の道一筋です。

 一つの仕事に誇りをもって
 取り組む、お二人ならではの
 対談の続きは本誌で!


───────────────────
  あなたの人間力、仕事力を高める
      月刊誌『致知』 

木曜日, 10月 29, 2015

工房からの風


天候が心配な土曜日でしたが、着いた時には傘が邪魔に成る様な一日でした。
私が思っているのですから出展者の作家さんたちはそれ以上にやきもきされていたでしょう。

雨上がりもあってか、まだ午前中の出だしはぼちぼちですが、午後からは賑わってきました。

テントの奥には手づくりクッキーやジャムやはちみつやスイーツや料理のお店が並んでいます、お昼近いのでお腹すきすき・・・・誘われます。笑



↑ ファンタスティックな世界をうつわいっぱいに表現している長谷川風子さんの可愛いうつわたちです。
木工作家の大住潤さんの作品様々な椅子の展示です。(右 写真)

ガラス Mellow Glass の小さなお家や街角を思わせるガラスたちが可愛いー!! 
光を取り込んでいるので半透明のオブジェが綺麗です。↑

興味のある方にはワークショップにも申し込めます。 指導者の方が親切に教えてくれます。木工の文字を作っている様です。↓







 



 
美しいシルエットのうつわですよね!! なかなか惹かれるうつわがいっぱいでした。
幾つか買って帰ってきました。
カラフルなうつわのテントや染のバックやスカーフや小物を制作している作家さん(大谷芳子さん)もいるので時間があっても足りないほど愉しめる一日でしたね。
 
中庭のは花やしょく物がいっぱいでベンチがあったりするので、ホット一休みをしたりして・・・いい感じです。   ブルーメンのお話を知っていますよね、その話を木工の世界で作った作家さんの木に登場人物を載せた楽しい 楽しいツリーがこちらです。←
 
 
■写真をクリックすると拡大されます。







土曜日, 8月 01, 2015

漆器を知ろう ・ 愉しもう!!

    

漆の豆知識

漆と採取の仕方は?

漆の採り方は、漆の木を植えてから10年程たち、直径10cm以上になると採取します。6月中旬から10月下旬にかけて、朝の4時頃から5日間ごとに傷を付け、1つの傷から一滴の漆をとり、何十本、何百本もの漆の木から採取して、終わったら全部、伐採してしまいます。つまり10年育った漆の木は1年で漆液がとられ、役目は終わる訳です。漆は大変貴重なものです。それだけ手間もかかるし、貴重なだけに漆器は高価なんですが、注意をはらって使用すれば長くご使用できます。

漆の色は?

飴色の半透明です。黒漆は鉄分を加えて作ります。朱漆や黄、緑、青などの色漆は、その色の顔料をまぜて作ります。しかし、ポスターカラーのようなカラフルな色は出せません。漆そのものが透明ではないので、白漆にしてもベージュに近い白色になります。又、漆は時間がたてばたつ程、乾燥し、硬化し、そして色が明るくでます。同じ朱漆で塗っても、乾燥して一日後の色と一ヵ月後、半年後の色では異なります。



漆器の上手な使い方

1.長時間湯水に浸しておくことは避けて下さい。使用後は出来るだけ早く洗い、柔らかい布で水気を拭い、乾いた布で拭いておきますと長持ちします。

2.太陽光線等にさらしておくこと。湿度の高い状況下におくことは避けて下さい。変形、変色、カビを生じることがあります。

3.新しい漆器の匂いが気になる場合は、風通しの良い所に数日間置くか、2~3回温水で湯通しをしたり(高温は避けて下さい)、薄めた酢で軽く拭くと効果的です。最初に100℃の湯を入れると椀もびっくりします。なじませていく方がいいですね。慣れてきたら味噌汁など100℃に近い熱さでも結構大丈夫ですが、ポットのお湯や沸騰したお湯をイッキに入れるのは避けましょう。

4.油のしみ出ているものや、指紋が付いた場合には柔らかい布や紙で丁寧に拭きとって下さい。

5.タワシ、みがき粉、食器洗い乾燥機、電子レンジのご使用は避けて下さい。

木の器は生きています。大事に使うと長持ちします。
もっと 気軽に愉しんで使ってみてください!!
 
 
 
■漆器のページ
 http://www.utsuwaclub-kyo.jp/artist_info.php?manufacturers_id=27

         














水曜日, 4月 08, 2015

元木貴信 X 元木庸子 ガラス展

「 元木貴信 X 元木庸子 ガラス展 」 東武百貨店池袋店6F 工芸サロン




 
うつわくらぶ京でお付き合いがある、ガラス作家の元木貴信さんと奥様の庸子さんの作品展に4/7にお邪魔してきました。    いつもながら技術の高さ・センスの良さに感動します!
貴信さんが成形し、庸子さんのサンドブラストで絵を描き着彩する手法が可愛くて素敵でした!


元木貴信作  ジュエリーボックス


宙吹きガラスの自由な特性を基にサンドブラストの可能性を追求、日々戦い
続けている二人の新作です。 
 
               庸子作 アネモネ 大皿・グラス
 
■上記はサンドブラスト手法のしかたが説明されています。

元木貴信作 グラス
 
 
元木貴信作 レース鉢 ・ グラス
 
1本1本様々なレース柄の棒を作り、並べてそれぞれを溶かして、ひとつの塊にして宙吹きし成形します、とても手間の掛る作品です。
 
ガラスの奥の深さ・美しさの極限をかいり観たひと時でした。 また 元木さんに少し作って頂こうと思います。  非日常なうっとりする空間でした。
 
 
 
■写真をクリックすると拡大されます。 
 
 
 

土曜日, 11月 15, 2014


 真珠王 御木本幸吉の生涯 』


真珠王の異名を取る
御木本幸吉(みきもと・こうきち)。


世界で初めて真珠の養殖に成功し、
ミキモトブランドを確立させた
稀代の事業家です。


96歳で天寿を全うするまで
常識を超える大きな夢に挑み続けました。


そんな御木本幸吉の生涯に迫る――。

  __________________

「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます」


  松月清郎(ミキモト真珠島真珠博物館館長)

      
    ※『致知』2014年12月号
      連載「致知随想」より


└───────────────────────┘

「世界中の女性の首を
 真珠でしめてごらんにいれます」


史上初の真珠養殖を成功させ、
真珠王と謳われた御木本幸吉が、
明治天皇に拝謁した際に述べた言葉です。


私は日本の真珠の聖地として知られる
鳥羽のミキモト真珠島「真珠博物館」の館長として、
常識を超える大きな夢に挑み続けた
この希有なる事業家の生涯を語り続けています。


幸吉は安政5(1858)年、
鳥羽で代々続くうどん屋「阿波幸」の
長男として生まれました。


商才に長けた祖父・吉蔵の代に
家は隆盛を極めますが、
後を継いだ父・音吉が病弱だったため、
家は次第に傾いていきました。


祖父の感化を受け、
家業再興の念願を抱いた幸吉は、


「鳥羽でせめて3番目の金持ちになりたい」


と夢見て、
13歳の時から「阿波幸」を手伝う傍ら
青物の行商を始めました。


ちなみに3番目の金持ちを目指したのは、
地元の豪商、広野藤右衛門、阿部平吉と
並び称される商人になりたいとの願いからでした。


鳥羽は海の町であり、
海産物に恵まれていました。


商人として大成するために
模索を続けていた幸吉は、
次第にこの海産物にも手を広げるようになり、
貝から採れる真珠に着目しました。


当時の日本では、真珠の産出量が少なく、
サイズも小さかったため、
装飾品として扱う発想はなく、
ほとんどが薬の材料として珍重されていました。


明治20年代の記録によれば、
たった5ミリで25円から50円もの値が付きました。


当時新聞記者として活躍していた
正岡子規の月給が30円だったといいますから、
いかに真珠が貴重であったかが窺えます。


そして伊勢は三河、尾張とともに真珠の有力な産地で、
とりわけ伊勢の真珠は見た目も品質もよく
最も高くランク付けされていました。


ところが幸吉が現地を調査したところ、
既に各所から採取の依頼が殺到して
乱獲に近い状態になっており、
真珠を産むアコヤ貝はほとんど採れない状態になっていました。


しかし、そこで諦めないのが
幸吉の成功者たる所以といえましょう。


採れないなら貝を増やせばよいと考え、
国策の海産物振興を手掛ける大日本水産会の柳楢悦や、
海外で最先端の真珠の知識を得てきた
東大教授の箕作佳吉の協力を得て、
真珠養殖の実験に乗り出します。


寺子屋しか出ていない一介の商人であった幸吉が、
こうした第一級の人々の協力を得ることは極めて異例のことです。


幸吉は人に自分の情熱を伝え、
巻き込んでいく力に非常に長けていたのです。


とはいえ、実験は困難を極めました。


養殖中に英虞湾に発生した赤潮で、
2年の歳月と全財産を懸けた
アコヤ貝が全滅したことがありました。


幸吉はそこで諦めることなく、
その翌年、鳥羽の相島(現・ミキモト真珠島)で
養殖中の貝から5個の真珠を見つけました。


世界で初めて養殖真珠が誕生した瞬間でした。


しかし喜びも束の間・・・

  * *

この後、幸吉の最大の理解者であり、
幸吉を支え続けた妻・うめが亡くなります。

次いである時、赤潮の被害に遭い、
85万個の貝が全滅。

幸吉は降りかかる様々な困難をいかにして乗り越え、
ミキモトパールの名を世界に轟かせたのか。

さらに、幸吉が残した
「事業を成功させる鉄則」とは――。

※この続きは『致知』2014年12月号 P87~P88をご一読ください。

木曜日, 10月 23, 2014


  「おまえは職人として見どころがある」

      川北良造(人間国宝)
   
      
   ※『致知』2014年11月号
     特集「魂を伝承する」より


└───────────────────────┘

ここ石川県南部にある山中(現・加賀市)は、
漆器、挽物の産地として栄え、
職人の家に生まれた子供は
親の仕事を継ぐのが当たり前のことと
考えられていました。


私は母の勧めもあって蒔絵の仕事を学ぶため、
中学卒業後すぐに漆器補導所に通いましたが、
やはり挽物の職人である父の仕事が
気になって仕方がありません。


2年間続けた蒔絵の仕事をやめ、
挽物の仕事を継ごうと決心した私に対して、
父は本家で修業を積むようにと言い渡しました。


(中略)


挽物の仕事はお椀や鉢など決められた形のものを
1日に何百個とつくっていくものですが、
修業時代にはその中でこれはよくできたというものは
必ず父のもとに見せに行きました。


ところがこれなら褒めていただけるだろうと
意気揚々と持っていったものを、
父は一目見ただけで、
黙って床に打ちつけるではありませんか。


最高の出来だと思ったものに対して、
なぜそのような仕打ちをするのかと
私の心は穏やかではありません。


しかし、父がそのようなことをするには、
やはりどこかに欠点があるのではないか。


そう思い直して打ちつけられたものを拾い上げて、
その出来具合をじっくりと見直す。


そんなことが度々繰り返されました。


あれは28歳で初めて日本伝統工芸展に
出品しようとしていた時でした。


ようやく一人前の職人として独り立ちした私に、
父がたった一言、


「おまえは職人として見どころがある」


と口にしたことがありました。


それまで一度として褒められたことがないだけに
驚きながらも、私はどこに見どころがあるのかと
尋ねてみました。


「私はおまえが褒めてもらえると思って
 見せにきたものを土間に打ちつけた。

 しかし、それをすぐに拾い上げて
 一所懸命に観察して考えていた。

 その態度が職人として
 見どころがあると思っていた」


いま思えば父は私の態度をずっと観察しながら、
「この子は職人の道に適しているか」
「辛抱強く一つの道を進んでいけるか」
と心配しながら見てくれていたのでしょう。


たった一言、生涯で一度だけの褒め言葉でしたが、
その時の感動はいまも大切に胸にしまっています。


挽物の名工と呼ばれた父からは、
祖父の代から受け継がれてきた職人の仕事を学びましたが、
私の仕事の幅を広げてくださった方に、
木工芸の人間国宝・氷見晃堂先生がいらっしゃいます・・・

  * *

木工芸の神様・氷見晃堂、
そして、漆工芸の神様・松田権六から
直に教わった「仕事の神髄」「一流の条件」とは――。

……この続きは『致知』11月号 P32~P35をご一読ください。